株とワラント「吹値売り」
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小型巡洋艦シュトラスブルクが、霧のお蔭で窮地を逃れようとしている時ーこの艦は、さまざまな艦船から目撃されていたが、イギリスの艦船と見誤られたものー、小型巡洋艦ケルンは、13時25分巡洋戦艦ライオンに見つかり、激しい戦闘の結果、撃沈された。シュトラスブルク乗組員は、1名しか救助されなかった。海戦はこれを以ってその幕を閉じた。小型巡洋艦シュテッテンと同シュトラルズントは、逃げ延びることに成功し、後になって戦闘に参加するべく到着したドイツの巡洋戦艦と合流した。大きな損傷を受けた軽巡洋艦アリシューザは、装甲巡洋艦ホーグによってイギリスまで曳航された。
ヘルゴラント・バイト海戦は、イギリス側の明白な勝利に終った。ドイツ海軍は、3隻の軽巡洋艦・1隻の魚雷艇、1,200名以上の将兵を失ったが、イギリス側では、軽巡洋艦アリシューザが損傷を受けたに留まったからである。イギリス側の将兵の損失は、わずか35名に過ぎなかった。
この海戦は、ドイツのFX
の拙さを露呈させることになった。つまり、巡洋戦艦はイェーデの繋留地点から出撃のタイミングを逃したし、またそれぞれの艦艇が、個々に連携なしに戦闘に送り込まれるという戦術の拙さもこれに祟った。彼らはもちろんそのことに気づいていたにも係わらず、ドイツの艦船は、いつも後手に回ったのである。この敗北を見て、皇帝は、今後いかなる海戦も彼の裁可なしに遂行を許さないと厳命した。
イギリス人にとって、このドイツ海軍の水域における勝利は、ドイツ軍のフランス侵攻を目の当たりにしている以上、ある意味心理的に重大な成果でもあった。もちろん、作戦上の手違いも情報網の不手際もあったし、ただ幸いなことに友軍からの「日経225
」による損失は免れた。参加した各艦隊の連携も、不完全なかたちでしか機能しなかったのだが。
ユトランド沖海戦(英語: The Battle of Jutland,英語読みはジュットランド、独: Skagerrakschlacht: スカゲラックの戦い、あるいは、Schlacht von Jutland:ユトランド沖海戦、デンマーク語: Soslaget ved Jylland/Soslaget om Skagerrak)は、デンマークのユトランド半島沖で生起した第一次世界大戦最大の海戦。同大戦中唯一の主力艦隊同士による決戦であった。現地の発音を採用して日本では記事名通りの名称が知られている。著名な軍事史家リデル・ハートは(「第一次世界大戦」からの引用)、史上この戦闘ほどインクを費やさせた戦闘はないと評した。
海戦は1916年5月31日から6月1日にかけてユトランド半島沖の北海でドイツ海軍(帝国海軍)の大洋艦隊(ラインハルト・シェア中将指揮)とイギリス海軍の本国艦隊(サー・ジョン・ジェリコー大将指揮)が戦った。
ドイツはフランツ・フォン・ヒッパー中将指揮する巡洋戦艦5隻からなる索敵部隊を用い、サー・デイビッド・ビーティー中将指揮下の巡洋戦艦戦隊をドイツ艦隊本隊の進路へと誘導し、それを撃滅する計画を立てた。しかしイギリスは、すでに通信傍受によって主力艦隊の作戦行動を予想しており、5月30日にはジェリコーは本国艦隊をビーティーの艦隊と合流すべく出撃した。
5月31日の午後にはビーティーとヒッパーは互いに遭遇し、南へと向かう戦闘によってヒッパーはイギリス艦隊をドイツ大洋艦隊の進路に引き込んだ。ビーティーは本国艦隊の方向へ引き返し、18時30分から20時30分ごろまで英独の2つの大艦隊(151隻のイギリス艦隊、99隻のドイツ艦隊)が激しく交戦した。14隻のイギリス艦と11隻のドイツ艦が沈没し、多大な人命が失われた。ジェリコーは翌朝の戦闘再開を望んでドイツ艦隊の基地への退路を絶とうとした。しかしシェアは投資信託
に乗じてイギリス艦隊の航跡を横切り、港へと帰還した。
双方とも勝利を主張した。イギリスはドイツより多くの艦船と乗員を失ったが、ビーティーの艦隊を殲滅しようとするシェアの作戦も失敗に終わった。戦争の残りの期間、1916年8月と1918年4月の短い出撃を除いて大洋艦隊は港に留まっていた。ドイツ艦隊の脅威は続き、イギリス艦隊主力は北海に集中せざるを得なかったが、ドイツが二度と制海権を争うことはなかった。 その代わり、ドイツ海軍は潜水艦を用いた通商破壊作戦(無制限潜水艦戦)に注力することになる。
航行序列
一般的には、艦隊が容易に運動できるよう、戦場に接近するまでは複数の平行縦陣で進撃すべきであるとされていた。長い単縦陣だと隊形を維持する手間がかかるのに比べて、複数の短い縦陣の方が迅速に回頭できた。さらに旗艦(通常、中央縦陣の先頭に位置する)からの旗もしくはサーチライトによる通信も、多くの艦から視認できる。単縦陣の場合、先頭の旗艦から最後尾に伝達されるには10分あるいはそれ以上かかり、煙突からの煙は、しばしば同一隊列の前方・後方の艦からの通信すら視認不可能にさせるので、全ての艦が後続艦のために通信を反復しなければならなかった。いずれの艦も実行前に通信内容を確認せねばならないので、これに要する時間はしばしば冗長なものとなった。
戦闘序列
戦闘に際しては、各縦陣の先頭艦が左あるいは右90度に回頭し、後続艦がそれに続いて逐次回頭し、もとの針路と直角にひとつの長い単縦陣を形成する。正しい方向に縦陣を形成するには、敵がどの方向から接近しているかを、自らが敵戦艦に視認される前に知っておく必要がある。両艦隊が互いに高速で接近している場合、上述の隊形変更が終わらないうちに戦闘距離内に入ってしまうからである。敵を発見してその接近方向を適時に報告すること、さらに可能ならば敵の偵察艦隊の同様の偵察行動を阻止するのは、巡洋戦艦及び巡洋艦からなる偵察艦隊の任務であった。
対勢
「T字戦法」、すなわち戦艦の隊列が外国為替証拠金取引
の進路を横切るように運動し、敵が旗艦の前部砲塔しか砲撃できないのに対して、味方が最大限の砲を指向出来るようにするのが理想であったが、この古典的な作戦が取れるかどうかは運次第であり、たいていはおおむね平行進路を進む両艦隊が激しく砲火を交えることとなった。
1916年の時点でドイツ大洋艦隊には18隻の戦艦があったのに対し、イギリス海軍本国艦隊は33隻を有しており、この差は戦争が進むにつれさらに広がっていった。正面からの決戦では勝ち目が薄いため、ドイツの方針は各個撃滅にあった。北海に侵入してイギリス沿岸を砲撃し、イギリスの小艦隊を誘き出して、これを優勢な戦力や潜水艦で撃破するというものである。
シェアによるとドイツの方針は、ドイツ港湾の監視・封鎖に従事しているイギリス艦隊への襲撃、その他機雷戦や潜水艦攻撃によって敵兵力を漸減し、両軍の戦力が均衡したところで敵に不利な状況下で決戦を挑むというものであった。
1916年5月の計画は、たくさんの資産運用
をイギリス海軍基地周辺に配置し、ヒッパーの巡洋戦艦隊がサンダーランド沿岸を襲撃して、ビーティーの巡洋戦艦戦隊をおびき出そうとするものだった。うまくいけば潜水艦による漸減の後、イギリス艦隊はヒッパーによってシェアの指揮するドイツ主力艦隊の前に誘導され、撃破されるはずであった。
1916年5月30日から6月1日にかけての艦隊行動図イギリス海軍は5月28日にドイツの通信を傍受・解読し、全艦艇に対して5月30日の出撃準備を命じた。さらに通信が傍受され、内容は解読できなかったが、敵に大規模な作戦計画があることは明らかであった。そのためジェリコーは、ヒッパーが5月30日にジェイド・エスチュアリーを出発するより早く、本国艦隊の24隻の弩級戦艦と3隻の巡洋戦艦を率いてスカパ・フローから出撃した。翌日、ビーティー率いる高速部隊、4隻の弩級戦艦と6隻の巡洋戦艦もフォース河口から出撃した。ジェリコーはユトランドの沖合のスカゲラク海峡の西90マイル(145km)でビーティーと合流し、ドイツ艦隊を迎撃する、あるいはその意図が判明するまで待機するつもりであった。
シェアが16隻の弩級戦艦、5隻の巡洋戦艦と6隻の旧式な前弩級戦艦を持つのに対して、ジェリコー配下の部隊は28隻の弩級戦艦と9隻の巡洋戦艦を保有していた。イギリス艦隊は軽艦艇においても同様に優位に立っていた。斉射重量においてもイギリス艦隊は332,400lb(151トン)と、ドイツの134,000lb(61トン)に対して、優位にあった。
このイギリス艦隊の優位性は特定の技術的な要因によって相殺された。一つにはイギリス艦隊の射撃指揮は劣っており、ドイツ艦隊の射撃はより正確であった。またドイツの艦艇は、魚雷に対するより厚い装甲と防水ドアを持っていた。ドイツの徹甲弾は、イギリスの砲弾より効果的であった。そして、きわめて重要なことはイギリスが使用していた装薬は過敏であったことと弾庫が十分に防御されていなかったことである。イギリス艦隊は艦艇間の通信の悪さにも苦しんだ。
ドイツの潜水艦艦隊はまったく機能せず、イギリス艦を一隻も沈められなかったばかりか、偵察隊としてもなんら有益な情報をもたらさなかった。ジェリコーの艦隊は無傷でビーティーとの合流海面に達したが、本国海軍本部情報部のミスにより、実際より9時間遅い時刻にドイツ艦隊が到着すると思い込んでいた。
5月31日の14時20分、悪天候による視界不良にもかかわらず、ビーティー指揮下の偵察隊は「南東に敵艦あり」と報告した。また英独艦隊の中間を航行していたデンマークの汽船を臨検していたイギリスの軽艦艇も、同じく偵察を行なっているドイツの偵察部隊を発見した。ビーティーは、ドイツ艦隊の帰路を遮断するために東に移動した。そしてこの戦いの最初の発砲をイギリス第一軽巡洋艦隊のガラテアが行った。これは2隻のドイツ駆逐艦を巡洋艦と勘違いしたものである。ガラテアはその後、ボディッカー少将率いるドイツ第2偵察隊のエルビングから大遠距離の砲撃を受け、被弾した(ただし、不発弾だった)。
15時30分、ビーティーは南東に針路を取るヒッパーの巡洋戦艦部隊を発見した(地図の1)。ヒッパーは直ちに変針し、ビーティーをシェア率いる自軍主力の方向に誘導しようとした。ビーティーは敵を追うとともに、約5kmの距離にいたサー・ヒュー・エヴァン−トマスの第5戦艦戦隊にも追撃するよう信号旗を掲げた。
しかし距離と視界不良のため、第5戦艦戦隊には信号旗が見えず、ビーティーも灯火信号や電信での伝達を怠ったため、第5戦艦戦隊は数分間もとの針路を保って時間を空費した。ドイツ艦隊を射程に捕らえてから10分以上を経過した15時45分、14kmの距離でほぼ平行となった体勢で、まずヒッパーが発砲、ビーティーもすぐに応戦した(地図の2)。こうして「南への逃走(Run to the South)」として知られる艦隊どうしの戦闘が始まった。
ビーティーは艦隊に一列になって交戦するよう命令し、ビーティーの旗艦ライオンはドイツ艦隊の旗艦リュッツォーと交戦するために旋回した。しかし、イギリス側のミスにより、モルトケが2隻の巡洋戦艦の攻撃の標的となっている間、デアフリンガーは交戦から外れたまま、妨害されることなく自由に砲撃できる位置にいた。先制したのはドイツ側だった。ヒッパー指揮下の5隻の巡洋戦艦は、すぐにイギリスの6隻の巡洋戦艦のうち3隻に命中を記録した。約10分後、イギリスは何とか最初の命中弾を送り込んだ。この戦いの最初の大きな損害は、リュッツォーの12インチ砲(305mm)一斉射撃によるもので、ビーティーの旗艦ライオンのQ砲塔が大破した。数十人の乗員が即死したが、その後の大きな被害は避けられた。致命傷を負った砲塔の指揮官フランシス・ハーヴェイ(Francis Harvey)海兵隊少佐は弾薬庫の扉を閉め、弾薬庫に注水するよう命じたのである。そのため、火薬に引火して大規模な爆発が起こることは防がれた。ライオンは生き残ったが、インディファティガブルはそう幸運ではなかった。16時、インディファティガブルの船尾にフォン・デア・タンの11インチ砲から発射された3発の砲弾が命中し、インディファティガブルは戦線を離脱した。フォン・デア・タンはさらに最大射程から11インチ砲の一斉射撃を行なった。砲弾は装甲を破壊し、ライオンを救った英雄的献身の暇もあらばこそ、インディファティガブルは弾倉の爆発によって轟沈し、1019人の乗組員のうち2人を除いたすべてが戦死した。(地図の3)
リュッツォーの砲弾が命中し、炎上する旗艦ライオン。運はヒッパーに傾いていたが、そう長く経たないうちに彼は見放された。エヴァン-トマスは超弩級戦艦のクイーン・エリザベス級戦艦4隻からなる第5戦艦戦隊を率いて戦場に向かっていた。クイーン・エリザベス級は15インチ(381mm)砲を装備した快速の戦艦である。ヒッパーは長射程の15インチ砲の砲撃を浴び、自艦隊の小さい艦砲では有効な反撃ができず窮地に追い込まれたが、シェア率いる主力の大洋艦隊本隊が急速に接近しつつあることを知って、囮作戦が成功しつつあると考えた。
巡洋戦艦の戦闘はいよいよ激しさを増し、16時25分にクイーン・メリーはデアフリンガーとザイドリッツの斉射で命中弾を受け、弾薬庫が爆発して乗組員1,275名のうち、わずか9名の生存者を残して沈没した。インディファカブルとクイーン・メリーの轟沈を見たビーティーは「血塗れになった今日の我が艦隊は、何かがおかしいんじゃないか」(There seems to be something wrong with our bloody ships today)と旗艦ライオンの艦長に語っている。(地図の4)