株とワラント「含み資産」
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シェアの逃走とジェリコーの不活発がドイツの夜戦能力の全面的優位を物語っているとは言え、夜戦の結果は会戦全体ほど明瞭ではない。グッドイナフの旗艦サザンプトンは深刻な損傷を受けていたが、有効な偵察を行っており、ドイツの軽巡洋艦フラウエンロブを何とか撃沈した。フラウエンロブは22時23分に全乗組員320名とともに沈没した。しかし、6月1日2時、運の悪い第一巡洋艦戦隊のブラック・プリンスは戦艦チューリンゲンの砲撃で致命傷を受け、戦隊の旗艦ディフェンスの数時間前の運命を再現するかのように、全乗組員857名とともに轟沈する。2時10分、イギリス駆逐艦隊はドイツの戦隊に向けて魚雷を発射する。駆逐艦5隻の喪失といくらかの損傷と引き換えに、どうにか前弩級戦艦ポンメルンを全乗組員844名とともに沈め、軽巡洋艦ロストックに魚雷命中、さらに弩級戦艦ポーゼンに衝突されて放棄された軽巡洋艦エルビングに損傷を与えた。巡洋戦艦リュッツォーは生存者1150名が脱出したあと、1時45分に自沈した。
ジェリコーの過剰な慎重さに加えて、ドイツ軍はロンドンの海軍情報局の失策にも助けられた。海軍情報局は、大洋艦隊の正しい位置を知らせる無線傍受を転送したが、ジェリコーがシェアの居場所をつかんだのは4時15分のことであり、もはや戦闘を続けられないのは明らかだった。1916年には「栄えある6月1日」は来そうになかった。
イギリスの損失は、3隻の巡洋戦艦を含む、合計14隻、排水量にして115,000トンと兵員6,094名を失った。ドイツは合計11隻、62,000トン、2,551名を失った。他にもイギリスの巡洋戦艦ライオンやドイツの巡洋戦艦ザイドリッツが大破する被害を負った。戦闘終了後、イギリスには即時戦闘可能な弩級戦艦と巡洋戦艦が合わせて24隻残っていたのに対して、ドイツは10隻だけだった。
イギリス側にとって、戦術的には僅差の敗北であった。より多くの艦艇を失った上、ドイツ艦隊を撃破するという意図も達成できなかったが、ドイツ艦隊は港に後退し、イギリス艦隊は制海権を維持した。この点、イギリス側は戦場の支配を維持したのだから、戦術的にも敗北とは言えないとする人も多い。損傷した艦艇がドイツ側より早く修理されたこともドイツ海軍の戦果を一部打ち消している。
戦略的にも結果ははっきりしない。ドイツ艦隊は二度と出撃することはなかったが、有力な戦闘部隊としては残り、その現存艦隊として存在している以上、ドイツを完全に封鎖したとは言えなかった。事実、ドイツ艦隊は8月と10月にも出撃している(いずれも戦闘には至らなかった)。
また、イギリス艦隊の行動を検証すると、二つの大きな問題が浮かび上がる。
イギリス側の徹甲弾はドイツ艦の装甲を貫通して内部で炸裂することなく、装甲の外側で炸裂してしまった。結果としてドイツ艦の中で8インチの装甲しか持たない何隻かさえ15インチ砲弾の直撃に耐えた。砲弾が設計通りに機能し、砲撃がもっと正確であれば、ドイツ側の損害はより大きかっただろう。
また、各艦とイギリス艦隊司令長官との間の意思疎通はお粗末だった。戦闘のほとんどの期間、ジェリコーにはドイツ艦船の位置が分からなかった。ドイツ艦隊と戦闘中の艦船がいたにもかかわらずである。それらの艦船は艦隊の戦闘計画通りに敵艦隊の位置を報告するのを怠っていた。連絡が無線ではなく株
旗によってなされたケースもあったが、戦場の視界が霞や煙でさえぎられているなかでは疑問の多い行動である。
巡洋戦艦における資産運用
の問題と運用の誤りは、イギリス海軍に重大な損害をもたらした主因である。この戦闘は、イギリス海軍が技術と作戦の両面でドイツ海軍に劣っていた証拠だとされることが多い。
ジェリコーは報告書へ以下のように書いた。
巡洋戦艦の交戦の問題点は、5隻のドイツ巡洋戦艦が同等のイギリス巡洋戦艦6隻と交戦し、しかも我が方は交戦開始から20分後には遠距離とは言えクイーン・エリザベス級戦艦4隻の砲火に支援されていたにも関わらず、なおクイーン・メリーとインデファティガブルを沈められた点にある・・・イギリス艦喪失の原因となった要因は、第一に、我が方の巡洋戦艦の不十分な装甲、特に砲塔の装甲と甲板の防御、第二に、照明について我が方の艦隊が受けた不利である・・・夜間におけるドイツの組織は非常に優れている。彼らの認識信号のシステムは優秀だが、我が方にはないも同然だ。また、彼らの探照灯は我が方より優れており、たいへん有効に活用されていた。最後に、彼らの夜間射撃の方法も優秀な結果を出している。認めたくはないが、夜戦についてはドイツ海軍から大いに学ぶべきだと言わざるを得ない。
2003年の夏にはダイバー隊が、イギリス艦に多かった艦内爆発の原因を調査するため、沈没した巡洋戦艦インヴィンシブル、巡洋戦艦クイーン・メリー、装甲巡洋艦ディフェンス、巡洋戦艦リュッツォーの残骸を調べた。この時の調査結果によると、艦内爆発の主な原因は主砲弾の推進剤であるコルダイトの雑な取り扱いにあったようだ。これは当時のイギリス海軍の方針で、敵に対して遅くて正確な射撃より、むしろ速射率を重視していたせいである。特に発射のスピードを重んじる訓練の際に、ホイストとハッチを通じてコルダイトを供給していたのでは間に合わない。次の斉射のための装填に間に合わせるため、誘爆に備えた防火扉の多くを開いたままの状態にして、コルダイトの袋を砲塔近くに置いていた。これでは安全のための設計がまったく無意味になるが、このような「悪い習慣」が実戦時にも行なわれてしまったのである。
さらにドイツ海軍の推進火薬であるRP C/12は個人向け国債
のシリンダーに収められていたのに対し、イギリス海軍のものは絹製の袋で供給されており、火炎に敏感で誘爆を招きやすかった。しかも1913年には、弾薬不足を恐れて、各艦の砲弾とコルダイトの積載量を50パーセント増やすと決定された。これが弾薬庫の収容力を超えた時には、コルダイトが危険な場所に保管されることになった。
巡洋戦艦ライオンの砲手だったアレキサンダー・グラントは回顧録の中で、一部の士官はコルダイトの雑な取り扱いの危険性に気づいていた、としている。
砲弾の火薬がコルダイトに代わったことで、爆発物取扱上の注意に関する規則が無意識のうちにかなり弛んだ。残念なことだが、海軍全体にわたって危険なまでに弛んでいた。艦上規則が次第に無視されるようになったのは、二つの理由があるように思える。ひとつは、コルダイトは従来の火薬よりも取り扱いがずっと安全な爆発物だったこと。もうひとつは、こちらのほうが重要なのだが、弾薬庫の構造が変わったことが偽りの安心感を与えていたことだ……ipo
や鋼鉄のデッキ、木の上貼りの廃止、埋め込みの電灯、薬莢を運び出す竪穴がなくなったために開けっ放しの鋼鉄のドア、こうしたこと全てが、爆発物を扱う注意についてやや安易な態度を将兵に招いていた。
海戦の後、イギリス海軍本部はコルダイトの取り扱いについて批判的な報告書を作成した。しかしその時にはすでに、ビーティは本国艦隊の司令官になり、ジェリコーは第一海軍卿(日本で言う軍令部総長)になっていた。そのため、艦内爆発の責任の一部は参加した艦隊の士官たちにあるとする報告書は握りつぶされ、ほとんど一般の批判を受けることはなかった。
海戦はイギリス海軍の概念と巡洋戦艦の使用に欠点があったと見られた。巡洋戦艦はジョン・アーバスノット・フィッシャーの、「速度は装甲」という言葉通りに設計された。それは敵の戦艦より速く、優れた射撃管制を用いて敵の巡洋艦を射程外から圧倒して反撃する余地を与えないことを目的としていた。しかし、この海戦で射撃管制の使用を可能にする開発が行われず、フィッシャーの方式は成り立たなかった。また、敵の戦艦からの攻撃に耐える装甲も不足していた。
当時、ジェリコーは慎重に過ぎてシェアの逃走を許したと批判された。とりわけビーティーはジェリコーは第二のトラファルガー海戦に勝利してドイツ艦隊を撃滅する絶好の機会を逃したと確信していた。ジェリコーの昇進は止まり、第一線から外されて第一海軍卿に回され、一方ビーティーがその後を継ぎ本国艦隊司令長官に昇進した。
戦後も10年近くにわたって賛否両論が続いた。批判は主にジェリコーが19時15分に下した株
に集中した。シェアは戦艦部隊の退却を援護するために巡洋艦隊と駆逐艦隊に魚雷攻撃のため前進するように命令した。もしジェリコーが(事実と異なり)西に転じていれば、雷撃をかわしてドイツ艦隊を撃破出来たであろうか、という疑問が残る。ジェリコーの擁護者は、海戦史家Julian Corbettを含めて、すでに制海権を確立した後に敗北の危険を冒すことの愚かさに言及している。Corbettの公式戦争史である「海軍作戦」(Naval Operations) は次のような異例ともいえる否定的文章を含む、「いたずらに戦闘を欲すること、それを決定的なものにしようとすることは重要ではないということは海戦の戦術で重要な原則であるが、これに全く反するものの見方をする人が多いようだ (Their Lordships find that some of the principles advocated in the book, especially the tendency to minimise the importance of seeking battle and forcing it to a conclusion, are directly in conflict with their views.)」。
各自が海戦の結果をどのように評価しようとも、それに賭けられていたものは恐るべきものであり、ジェリコーにかかっていたプレッシャーはとてつもないものだった。彼の慎重さは充分理解できるものである。彼は恐らく勝利の確率が90パーセントであっても、英帝国の運命を賭けるには充分ではないと判断したのだろう。かつての海軍大臣チャーチルは海戦を評して「ジェリコーは半日で戦争を敗北に終わらせることの出来る唯一の人間だった」としている。ジェリコーへの批判は同時にシェアへの評価を落とすことにもなっている。シェアは決戦を避けることにより艦隊を保全することを決意したのであり、退却戦において優れた技量を発揮したのであった。
爆沈する巡洋戦艦クイーン・メリーイギリス艦隊が完全な勝利を逃したことについてビーティーの行動を批判する一派も存在する。ビーティーの勇敢さに疑問の余地は無かったが、ドイツ艦隊との交戦で彼がとった処置のため海戦は危うく敗北に終わるところであった。イギリス艦隊の損失の大半はビーティーの戦隊である。その日に失われた三隻の主力艦はいずれもビーティーの指揮下にあった。ビーティーはその巡洋戦艦をその設計目的にそぐわない戦闘に投入した。それらは対巡洋艦作戦に用いられるためのものであり、大きく強固に装甲された弩級戦艦との直接交戦のためのものではない。弩級戦艦との砲戦で巡洋戦艦は決定的に不利である。
加えて、ビーティーの戦闘行動が統制がとれていなかったこともしばしば批判される。ビーティーは明らかに海戦において緻密な指揮統制が重要とは考えていなかったようである。ビーティーは巡洋戦艦ライオンに座乗していたが、途中で他の4隻の巡洋戦艦との接触を失ってしまった。ビーティーの12インチ砲搭載の巡洋戦艦はドイツの11インチ砲搭載巡洋戦艦より射程が長かったにもかかわらず、ビーティーはドイツ艦隊の砲術が威力を発揮する距離まで距離を詰めてしまった。一方でビーティーの巡洋戦艦の砲術は訓練不足から今一つで、「南走」(The Run to the South)において重大な影響をもたらした。
訳注: ビーティの主力は13.5インチ砲搭載であった。またドイツ艦隊もリュッツォー、デアフリンガーは12インチ砲搭載だった。また射程距離は必ずしも口径によらず、ドイツ艦砲の短射程は仰角が小さいことが主因である。
この戦いの間、ビーティーは「血塗れになった今日の我が艦隊は、何かがおかしいんじゃないか」という有名な発言をしている。ビーティーが非難を他人になすりつけていること自体に賛否両論がある。巡洋戦艦の指揮がまずく、第5部隊をなおざりにし、戦闘の準備が不適当だったとは言え、攻撃精神が不十分だったという点で、ビーティーはジェリコーを非難する理由がある。一方で、この戦いの間ビーティーとアーバスノットは敵に突撃するという愚行を犯している。